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2015年12月13日

今日のアベコベ:硬そうなのにやわらかい?やわらかそうなのに硬い?

ヒトの思い込みというのは大変面白い。そしてその思い込みを利用して、つまりは心理学や行動心理学に基づいて行われるのがデザインという作業だったりする。演出もおなじで、ヒトはこう出したらこう思うだろうとか、こう動くだろうというのをある程度予測して要素を組み立てていくので、自然と人の行動というものに常日頃から興味がわくようになる。

一度物事の「みため」と「素材」をアベコベにしてみる実験をしてみたことがある。スワリの森でつくった「硬そうなのに柔らかいイス」である。

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これは一見トゲトゲしており、硬くて冷たそうな印象の物体だけど実は座ると、柔らかい素材でできていることがわかるというアベコベイスである。人の錯覚と触覚のギャップを、体験によって埋めてもらうという試みで、実際若干用心しながら近づいてゆったりと腰を下ろす姿を多く見かけた。

 

このイスを作る過程で、じつは二通りのアイデアがでていたが、もう一つのアイデアが「ボツ」になったことは、私に新しい発見をくれた。

 

「錯覚と触覚がアベコベなイスををつくろう」として生まれたのが下の二つである。

 

①硬そうだけど柔らかいイス

②柔らかそうだけと硬いイス

 

さて、この2つのうち、②は即座にボツになった。理由はお分かりのことだと思う。

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②のイスで人が最初に起こす行動は、①のイスとは大きく変わってくるからである。

ひとことでいえば、②のイスは人を見た目から安心させる作用をもっていて、

人は「やわらかそう」→「飛び込んでもうけとめてくれそう」「気持ちよさそう」という心理が働き

それをそのまま行動に起こす人がいるとすれば、彼または彼女が大怪我をすることは目に見えていたからだ。

 

逆にいうと、目的次第では②の方が採用されたケースもあるだろう。例えば防犯用に、いかにもやわらかそうなのにじつは固い塀があったら、犯人は突き指ぐらいはしてくれるかもしれない。

なんだか当たり前のことをとても大げさに書いているようだけど、同じ「錯覚と触覚」というふたつの関係性について考えた時に、その矢印の向きを変えるだけで、人の安否がここまで左右されるのだから、ものの見た目というのはなかなか侮れない。

そんな、アベコベなおはなし。

 

 

 

 


2015年12月13日

[Works]ルミネクリスマスキャンペーンのクリエイティブディレクションを担当しました。

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クリエイティブディレクションを担当させていただいた、ルミネのクリスマスキャンペーン「LIGHT ME CHRISTMAS わたしが輝くルミネのクリスマス」が、12/25で終了しました。同じく企画とディレクションを担当させていただいた新宿、有楽町、横浜の3店舗ともに、沢山のお客さまに体験頂くことが出来ました。クリスマスの良い思い出になれていると良いなと思います。お越しいただいた皆様、ありがとうございました!

詳しいキャンペーン内容に関して、下記にまとめました。

LUMINE LIGHT ME CHRISTMAS  : https://harukafuruya.com/gallery/lumine_xmas2015/

 

2015年12月12日

今日のデキゴト:ホテルオークラ解体品を売る試みと、「残し方の作り方」を考えるということ。

株式会社ホテルオークラと、チケットぴあが、こんな面白い試みをしています。

Memories of Hotel Okura ホテルオークラ 旧本館家具・備品販売 

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1962年、赤坂、虎ノ門の高台に建てられたホテルオークラですが、2015年8月末に建替えに向けて閉館したのは記憶にあたらしいですね。そのホテルオークラの旧本館の家具や備品(カーペットや部品や壁紙、シャンデリアなど)を日用品に加工して、販売するという試みのようです。

チケットぴあとの共同プロジェクトのようで、CHARITY  PROJECT FOR MUSICとなっており、収益金は廃校となった学校の楽器を回収・修理するために使われるのだそうです。(ホテルオークラが継続してつづけていた音楽・芸術・国際交流を軸としたメセナ活動が文脈としてあるようですね。)

ホテル内高級中華料理店のシャンデリアの宝石をアクセサリーとして加工したり、カーペットを小型マットに加工していたり、壁紙をデスク照明に加工したりと、さまざまな「残し方」が工夫されています。

(ホテルオークラの特徴的な鱗紋のタイルも、ひとつづつシリアルナンバー入りで買えるとか。)

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(写真はすべて上記サイトより転載)

一般販売は
2015年11月24日(火)18:00〜2016年1月17日(日)23:59予定(第一次販売)
2015年12月25日(金)18:00〜2016年1月17日(木)23:59予定(第二次販売)

第三次販売は2月を予定しているそうです。

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実はある件で、これと似た分解販売の企画をしていたのもあって、とても共感しました。自分がつくるものも、どうしても期間限定品な空間が多かったりするので、「残す」という「作り方」はぜひ実現したいな。ファッションでいうと、展示会のサンプル販売とかも近いかな。

残し方の作り方 が、インスタントなものづくりをしてきた広告・デザイン・映像業界でももっと注目されていくといいなあとおもいます。

 

 

 


2015年12月11日

今日のデキゴト:安室奈美恵さんのツアーライブ

…にいってまいりました!

代々木第一体育館で行われた安室奈美恵さんのライブ「LIVEGENIC」!いやー、素晴らしかった!

LIVEGENICは安室奈美恵さんの最新アルバム「_genic」を皮切りに発表された、全国アリーナツアー。

「_genic」には、ミュージックビデオディレクターとして参加させていただきました。有難いことに今回はライブにご招待いただき、いつもは座ったことがないようなところから、ガクブルしながらライブを拝見させていただきました。。(もちろんガクブル、はライブが始まるとノリノリに変わったわけですが笑)

安室奈美恵 / 「Birthday」 (from New Album「_genic」) – YouTube (short version)

安室奈美恵| MV「Birthday」(惑星ハルボリズム)

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(また、大変めでたいことに、BirthdayのMVは、先のMTV VMAJ 2015 にて「BEST FEMALE VIDEO賞」を受賞しました。

「年間の優れたミュージックビデオを表彰するアワード」なので、映像作家として一端を担わせていただいた身としては本当に、心より光栄なことです。投票いただいたみなさまにあくまで制作陣の1人としてお礼をお伝えしたいとおもいつつ、安室さんのファンの力強さ、安室奈美恵さんの変わらぬ人気にあらためて、感銘をうけました!あらためてみなさまおめでとうございました!)

 

さてさて、ライブについてです。ネタバレになるので内容は詳しくは書きませんが感想を!

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もー、すごいエネルギーでした!安室奈美恵さんも、お客さんも。

約30曲ぐらいを数回インターバル映像をはさんで、歌って踊り続ける安室さんとダンサーのみなさま。

はあ、やっぱりプロだなあ。その場のエネルギーだけじゃなくて、それを数十年間続けてらっしゃるわけで、今回のライブのも全国含めると約40公演強!とんでもないエネルギーです。お客さんをみると、10代とかの若いお客さんも結構いる。新しいパッションで常に活動をされてるから、常に新しいファンがついていってるんですね。時代とともに、変わることを恐れてないというか。でも、変わらない強さがある。

 

変わることと、変わらないこと両方を武器にされてる方は、やっぱり強いなあとかんじました。

 

いい意味で、人間に行けない領域っていうのがあるのだとしたら、安室奈美恵さんはそこにいらっしゃる方の1人だなあ、とおもいました。

ライブ演出も本当にさまざまなしかけが施されていて、すっかり仕事スイッチがはいっちゃいました。笑  個人的にすきだったのはダイヤモンドのステージ。カット面がそれぞれ違うライティングカラーになるよう制御されていて、曲ともあいまってかっこよかった。何より巨大なダイヤモンドの上に乗るって、女子が憧れるようなことをさらりとやってのける安室さんがすごい。あとはまるで宇宙船がおりてきたかのような、六角形の巨大モニターに、吊るしのキネティック照明が宇宙空間っぽくて好きでした。宙にういてるのっていいよね。未来感。未知なるもの。

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あと、こいつすきでした。笑 詳しくはネタバレになるから書きませんが。笑

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とにかくデジタルとアナログの両刀で作られたステージと、その上で展開されるパワフルなパフォーマンスに、目が離せませんでした。ライブ演出ってすごいなあ、今はいろいろなことが実現可能なだけに、面白い表現の場だと思った。もともとは舞台演出をやっていたのもあるけど、来年はライブ演出もできるようになりたいな。やっぱり生ものはいいなあ。

まだライブも1月もまだ残っているようですが、安室さんダンサーさんスタッフのみなさま、引き続き応援しています!

ツアーの成功をお祈りいたします。

 

 

 

 

 


2015年12月10日

今日のデキゴト:テクノロジー系譜学

 …というものをずっとやりたいと思っている。(すいません、今日は系譜学を解き明かすところまで落とし込めてないですが)ずっと思っていたことをベースに今日話をしたので忘備録というかメモ。

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来年おこなう発明にむけて。

きょうもおいしいものをたべながら、あーだーこーだとやりたいことを議論した。

石器時代から、大砲といった発明の時代がから、コンピューターがうまれ、ソフトウェアがうまれ、一時期人の意識は「かたちないもの」(インターネット)に移行して、ハードウェア系ものづくりにふと穴が空いた瞬間があった。そしていまはまた、ハードウェアが復活して、インターネットが手を組んで、あーだーこーだとやっている。

 

わたしたちは、テクノロジーとどこにいくのだろうか。

 

そんなふうに、テクノロジーを先読みして、「やりたいこと」をたくさん広げて、整理したらいろいろみえてきた。

時代が追いついたときに一気に爆発するものいますぐにできそうなことを分類する。

つまりは、 現状のリソースで思い描く最善のアウトプットに近い状態で世に出せるか、否かという判断をするということだ。

例えるならバッテリーや液晶の小型化(それも極めて小型なものの場合)など時代が進まないと並に享受できない技術というものがある。

理由は物理的なものはもちろん、法的、そして「権利的」に。

実にいろんなものが絡み合った結果、私たちはテクノロジーを日々「利用」し「享受」している。

 

しかしながら作り手として、やることはいつだって、ただひとつ。

そう、やるしかないのだ。考え続けて、作り続けるしかない。

未来のテクノロジー系譜図を思い描きながら、そのうえに「こんなのあったらいいのにな」をプロットしながら、

緻密に、過激に、動き続けることにほかならない。

発想を現在できるありったけのものを使って、構築し、プロトタイピングをしつづけるのだ。

 

その長い文化構築と発明の時間とうまくつきあうには、

わたしたちは「あそびつづける」しかない。

 

なんとたのしい人生だろうか。

いまから未来をみて、未来で答え合わせをするんだ。

最高のあそびだ。たのしくてしかたがない。

そんなかんじで。

来年も再来年も、未来にのびるなにかをしんじて、あそびを提案実践しつづけようとおもう。

 

人生は長いようでみじかく、みじかいようで、長いのだから。

 


2015年12月9日

今日のデキゴト:世界でひとつだけのカレンダー

今日友達と、友達のお母さんと、そのお母さんの友達Mさんと草月ホールでバレエをみたあと、ご飯をしているときに、すばらしいはなしをきいた。

Mさんが1ヶ月ほど入院をしたときに、あるフランス人の方が「カレンダー」をくれたという。

それは、手作りのカレンダーで、日にちのところがすべて、ポケットになっていた。

そのフランス人の方はいったそうだ。

「必ず毎日ひとつポケットをみてね」

 

そのポケットには、フランス人の方が、Mさんのために Mさんの家族や、知人からあつめた「メッセージ」がひとつづつ、 入っていた。

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するととたんにMさんは入院生活がたのしくなった。

毎日ひとつポケットの中のメッセージをひらくことが、毎日ひとり、 誰かがおみまいにきてくれるみたいにうれしくなったのだ。

 

その「おたのしみ」は院内にひろがって、Mさんだけじゃなく、看護婦さんたちも楽しみに、毎日集まってくれたそうである。

 

無邪気な思いやりだけども、それをやりきる、ということは こんなにもたくさんの人を心をうごかす。なによりも、本当は暗く辛い時間だったものを 全く逆の、明るく楽しみに満ちた時間にかえてしまったのだからすばらしい。

 

アイデアとかつくることにできることはまだまだたくさんある、わたしはつねにそうおもっていてこのおはなしをきいて、ますますそう思うのでした。

 

私にも、病気とたたかっているおばあちゃんがいて

毎日なにかおばあちゃんが、少しでもたのしみにできるものはないかなあと、

毎日贈り物をするプランなどをたてていたんだけど、

 

このお話しをきいて、ああそうだ、カレンダーをつくろう、とおもった。

毎月カレンダーをつくっておくってあげよう、と。

 

来年の1月からおばあちゃんにカレンダーをおくる。

そうきめた日でした。

 

 

 

 

 



2015年12月7日

今日のデキゴト:歴史を早送りすると、それはパラレルなタイムラインでできていた!

スクリーンショット 2015-12-08 16.34.40https://www.facebook.com/619408644867021/videos/620140051460547/

歴史を早送りすることで見えてくるもの。

歴史を俯瞰からみることで見えてくるもの。

さいきん、そんなことによく想いを馳せる。

 

上の動画は紀元後からの世界の宗教の広まり方を、早送りで見せている動画である。

紀元前より勢力を増してきた「ローマ帝国」から始まり、暗殺と流行病等の影響で反乱が頻発するようになり、対策として行われた非ローマ市民への市民権授与が、ひいてはさらなる混乱をまねき、ゲルマン人の侵略も重なって西ローマが滅亡するなど、ローマ帝力の勢力が衰えている中で、帝政初期に着実に信者を増やしていった「キリスト教」は2世紀末には帝国全土まで教線を拡大していった。

西ローマが滅亡したあと、唯一残った東ローマが正式に「ローマ帝国」を継承。ローマ帝国の中でも、ギリシア的性格の強い地域はローマ教会を分離し、「ビザンツ帝国」として名前を変えていった。

7世紀後半は、戦乱・疫病等の影響によりイスラム勢力等に侵略され、ローマ帝国に十字軍を要請。しかし当初の目的と違い、経済的要求が強まったことから十字軍に逆に侵略され、ラテン帝国がはじまる。…

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国境線の侵略、滅亡が、戦乱・疫病によって繰り返され、

既存のものは地域性によって名称を変え、

信じるもの同士がぶつかりあい、譲れずに争って

そんな歴史を見てみると

私達が生きている「今」も他でもないこの一本の、歴史の延長戦上にすぎないことが分かる。

 

これは歴史学でも、生物学でもなく、たんに私個人の哲学という小さな部屋の中の話でしかないことを念頭におきつつ。

 

よくこの地球は、ニンゲン一個体の体の中の、いち細胞に過ぎないんじゃないかと思うことがある。

 

もともと細胞は、作られるシステムと共に、壊れるシステムも同時に持っていて

その個体全体の状態を保つためにあえて自ら壊していくアポトーシス的システムが

この地球にもあるのかもしれないと思ったことがあった。

アポトーシスとはつまり、「予めプログラミングされた細胞死」のことである。

 

地球そのものを生かすために、きっとニンゲンが内部的に争うように出来ていて、

あるいは一度出来た「常識」というものが(宗教に限らず)、分裂し、分裂したうちの片方が滅亡し、またぶつかって統合し、分裂し…という形で、滅亡と再生を繰り返す自然界のシステムにのっとっているような気すらしてくる。

ここ2000年程で人口はものすごい勢いで増えていったけど

次の2000年で、また人口が著しく減少していくんだとしたら

そういった壮大な、人単位では考えられない地球の長い寿命を基準にしてみてみると

私たちは、地球っていう一個体の「一生涯」の中、生まれては滅びていくアポトーシス的指令を与えられた「ひとつの細胞」なのかもしれない。

 

もう一度いうと。これはなんの根拠もない、単なる「もしも」の話である。

 

そしてそういった滅ぼす本能を持った私達が、じゃあなぜ、を大切にするようになったんだろうと

考えると、それがいつ誰にどう与えられたものなのか、今度はそちらの歴史を巻き戻してみたくなる。

 

むかし・いま・みらいは単一線ではなくて、複数のパラレルな線でできているので、本当の意味で俯瞰になって考えるには、たくさんの年表達をずらりと並べて重ねてみないと、なかなかみえてこない。

上の映像にしてもそうである。

一件宗教の教線を単一的にビジュアル化しているようでもあるが、その裏には「疫病」「民族の侵略」「法律の改訂」「国の滅亡」「科学の進化」といった、実にありとあらゆる複雑な「歴史の線」が入り乱れた複雑な交差点の上に、なりたっているものだ。

その交差点上を、「歴史の変わり目」とか「時代の境目」と呼ぶのだとすれば

これから「時代がかわった!」と思えるような、大きな「境目」はいつくるのだろうか?

なにをもって「変わり目」と定義すればいいのだろうか。

経済は、技術は、都市は、教育は、福祉は、医療は..それぞれのパラレルなタイムラインは、今後どう交わって、どう分岐し、どう滅び、残っていくのか。

そういったことを予測するためにも、いっそ宇宙的な視点で、パラレルな歴史をみつめなおすことをしたい。そうおもった。歴史というよりは、系譜学という方が正しいかもしれないが。

いまとむかしとみらいをつなぐ、ぼんやりしたながーい道の上で

でも前と後ろだけじゃなくて上と下にも、その線がのびていることに気づいて

「歴史は単一線ではなく、なんとおりもある。」とおもったときに

 

長い横長の歴史に、重力がうまれた。

 

 


2015年12月6日

今日のデキゴト:there is no such a border.

rhizomatiks research× elevenplayの「border」を見に行った。鑑賞と体験どちらも参加させていただきました🙇

本当に素晴らしすぎました、コトバにするのがもったいないぐらい!!!

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感動してすぐさま空間とそこで起きてるデキゴトをスケッチしてみました。

観客として舞台全体を観劇したあとに、WHILLに乗りoculusを通して体験するW構成。

タイトルの名の通り、観る側が「境界線」を探るような内容で、実像と虚像の間、空間と映像の間、観客とパフォーマーの間で、さまざまな境界線がいりみだれていました。

とくにWHILLとoculusによって、それらの境界線をあくまで「受け身」になって体験すればその意味がわかるとおもう。

虚像のダンサーと実体のダンサーが同空間に共存したり、白い舞台美術がCGで拡張されて形を自由自在にかえたりという、視覚と聴覚のバーチャルな個室に閉じ込められたと思ったら、ダンサーに体をタッチされて肉体が現実に引き戻される。

そういった「境界線」を、あえてさまよわせる導き方が、演出としてとてもわくわくしました!

image image image imageそしてその演出を実現する緻密な制御がすばらしすぎて…。モーキャプと再帰性反射材たち、オキュラスにWHILL、そしてカラフルなホロライトたち…一体いくつ制御してるんだろう!?というぐらい!80回を超える公演で一度も公演がストップすることなくやりきったのだとか。本当に頭があがりません。敬意。

imageimageimageそしてなによりダンサーさんの体の動きのうつくしいこと!人間のからだと白い箱とWHILLが、もうぜんぶいきものみたいにみえてきて、一周回って自分の体の中の生命力みたいなものに気づいていくかんじ。

おもしろいな、とおもったのは、観客として、WHILLにのって舞台の中で体験していても、舞台を外から見ていても、自分が「客観的」かつ「受け身」であることが一切かわらないことだった。

生身の空気の中にいるはずなのに、oculusを通してみると舞台があっという間に「映像」にかわった。

(いやここでは映像というコトバはふさわしくないかもしれない。映像と空間の間。)とくにWHILLに運ばれているため、能動的なアクションはほぼ無い状態で、さらにはヘッドホンのおかげで外部の音環境とも少し断絶されて、たまに扉があく個室で映画をじっくり鑑賞しているような不思議なきもちになった。なんというか、舞台特有の緊張感とか、生っぽさとか、失敗するんじゃないか、というハプニング性を一気にかんじなくなったのが不思議だった。(本当は舞台の上にいるから、より、緊張するはずなのに)安心感があった。

たぶん、自分がどこかにいっちゃうんだとおもった。空間全体を把握して自分の居場所を確かめる人間的本能が、オキュラスを通した拡張現実の世界だと通用しないというか。場所の設定のほうがどんどんかわるので、自分の立ち位置や存在感が、ふっと消失するかんじがしてそれがおもしろかった。

本当にいろんな境界線について最近考えてたのでとてもホットだったし、いろいろ更にやりたいこともできました。刺激をいただきました!!

真鍋 大度さん、MIKIKOさん、elevenplayチームのみなさま、制作チームの皆様、素敵な体験をありがとうございました!体験できてほんとうによかった。。!


2015年12月5日

今日のデキゴト:i pad pro とApple Pencil

imageツールはどんどん進化しても

なんだかやっていることは基本的におんなじだ。

我が家にi pad proという

魔法のペンと魔法のパッドがやってきた。

上のスケッチはその2つをつかって5分ほどで適当に描いたものだ。

 

まったくストレスがなかった。

デジタルとかアナログの境がまたひとつきえた。

このツールはほんとうにすばらしい。

ここまで「手描き」と差異ないほどの感覚で(それもipadで)描けることにまず驚いたし

思いついたらすぐ絵を描いたり

撮った写真の上にスケッチをかきこんだり

カメラ・ペン(それも限りない種類の)・ 紙(それも限りない種類の)

が全部つまってるから

もはや四次元ポケットなんじゃあないかと思うほど便利。

 

デザイン・建築・映像などなどアイデアやビジュアルに関わる仕事の人は

重宝するとおもいます。

 

 

たいせつにつかおうとおもいます。

これで毎日のデキゴト、ヒトコト、オモイツキに

挿絵がくわわるかも、しれません。